読売新聞に掲載いただきました

朝4時、まだ暗いうちから
ごま豆腐作りに欠かせない「高野七弁天」の一つ 、円山弁天様の清水を頂くお社へお参りするのが店主の日課です。

毎日欠かさず、皆が出勤する前の工房から一人、般若心経をお唱えする声が聞こえます。

『 ごま豆腐は精進料理のお膳の中の一品。
その作り手の和を乱してはいけない。
でも心を込めて作るからには、印象に残る 〝すごく美味しかったね 〟
と、存在感のあるごま豆腐を
より多くの人に届けたい。』

そんな思いを込めて一つ一つ手作りで丁寧にお作りしております。
これからも変わらず、感謝を忘れず
精進していきたいと思います。

胡麻豆腐は何故白いの?

濱田屋の胡麻豆腐はどうして白いのでしょう。

胡麻成分が少ないのではありません。
白ごまの皮を丁寧に剥いて芯のみを使っているので
胡麻がまるっと全部使われており、皮の苦味もなく色も白く栄養の吸収率がとても高いのです。

乾燥肌を防ぎ、肺を潤す白胡麻
白い宝石と言われ50種類以上の漢方薬に使われる本葛
どちらも滋養食と言われております。

定番のわさび醤油、
お吸い物やお鍋で白子の様に温めて、、
和三盆や黒蜜、きな粉、柿ジャム、梅シロップ、
カボス、紫蘇、、など

ご自宅で是非色々とお試し下さいませ。
皆さまの健康と幸せにつながります様に。

豆腐

書く時間を確保できず期間が空いてしまいました。
約3ヶ月ぶりの更新です。
今回は豆腐についてです。

豆腐の起源は紀元前2世紀淮南王劉安が発明されたとなっていますが
諸説色々あります。
また日本へは遣唐使が中国より伝えた説が最も有力です。
鎌倉時代に民間へそして室町時代に全国各地に広まったようです。
江戸時代には豆腐百珍という本がベストセラーになり続編も発行されました。
ちなみに豆腐百珍の中には胡麻豆腐も載っています。

作り方は
大豆を一晩水に浸け、加水しながらすり潰して煮沸。
濾して豆乳とオカラに分けます。
出来上がった豆乳を苦汁で固めます。
このまま冷ましたものを絹ごし豆腐、
容器に布を敷き押し固めたものを木綿豆腐と言います。

さて固める作業の際、苦汁の量が重要で多すぎるとコツコツとし
豆腐に少し茶色っぽい色が混じりますし少な過ぎるとそもそも固まりません。

また、作り手にも大きく左右されます。
ワン・ツー寄せ器でも櫂でも
(どちらも苦汁と豆乳を混ぜるもので櫂の方が難しい)
その時の体調や感情がそのまま出来上がりに出てきます。
ですから、常に心身ともに一定に保っておかないといけません。

私が作っていた際は、ワン・ツー寄せ器を使っていましたが
頭の中で苦汁が全体に行き渡るイメージを描きながら
手に伝わってくる感触を大切にし、力加減を加減していました。

一発勝負なので神経を使い難しい。
その分やりがいもあり毎回気づきの連続で面白さもあります。

胡麻豆腐

今回は胡麻豆腐についてです。

胡麻豆腐はいつから作られるようになったか。
諸説色々とありますが
私が以前調べた範囲では和漢精進料理抄(1697)で
『麻豆腐(もとうふ)』とあるのが最も古い記述でした。
麻豆腐とは、隠元禅師が普茶料理の一品として中国より伝えたと
普茶料理抄(1772)に記述があるので、隠元禅師が伝えた説が有力かと考えております。
特にそう思う根拠の一つに、
材料の本葛が葛の根から本格的に作られるようになったのが約400年前だからです。

また、高野山のお土産として胡麻豆腐が知られるようになったのは
高野豆腐が作られなくなった昭和30年代、
3代目義次が、町の方々と何か代わりにお土産となるものはないか?
と話し合って売り出すようになってからです。

さて胡麻豆腐の作り方ですが
胡麻をよく擦り水と葛で丁寧に練りながら煮込み
型に入れ冷まします。

これは麻豆腐として伝わってきた方法で、
大凡この通りで作られておりますが、高野山では少し違います。

ご存知の方も多いかと思いますがお山では胡麻の皮を剥き、
白い芯の部分を使って製造します。
この芯の部分を加水しながら挽き、絞り汁を作り、葛を丁寧に溶かして
鍋で加熱後、型に入れ冷まします。

胡麻の皮を剥くことにより、出来上がりが白く
そして油分が少なくなりますのであっさりとした胡麻豆腐となります。

高野山ではなぜこのような製法になったかは、勉強不足でわかりませんので
今後の課題なのですが、よく似た製法が「新撰豆腐料理」(明治22年)に
載っています。(但し、葛ではなく餅米を使います)

最後に、当店は吉野本葛を使用しております。
(株式会社黒川本家様の随一本葛を使用)
葛=本葛と思われがちですが、実際は違います。
本葛は葛デンプンのみで、成分表示が「葛」もしくは「葛デンプン」
一方葛は葛デンプンと甘薯デンプン(さつま芋)を混合したものです。
割合の多い方からの表示となりますので
「葛デンプン、甘薯デンプン」または「甘薯デンプン、葛デンプン」
と表示されます。
価格も全く違いますので、原材料を確認してみて下さい。

高野豆腐

ここ最近思うところがございまして
これからは自分が知っている範囲で色々と発信をしていこうと思います。
先ずは胡麻豆腐の事と言いたいのですが
やはり高野豆腐の事から始めたいと思います。
月に1、2度程度とはなりますがお付き合いください。

元々高野山の代表的なお土産の一つはその名が示すように高野豆腐でした。
(他にはお数珠、陀羅尼助、目薬、等々)

寒い地方では凍り豆腐として各地で作られてましたが、
高野山では江戸時代の宝永5年(1708)伝右衛門が販売目的で製造を始め
寛政年間(1789〜1800)には大規模生産されるようになりました。
享和3年(1803)の本草綱目には
「和州高野の名産」として京阪地方にその名を知られ
天保年間(1831〜1845)の「続紀伊風土記」には
十数人の職人が分業で製造する図が掲載されてます。

明治時代になりますと、軍の携行食として高野豆腐が採用され
益々製造が盛んになりました。

また冷凍技術が発達し、明治36年に大阪天満の乾物商和田半兵衛が
第4回内国勧業博覧会凍豆腐の部にて「人口冷凍豆腐」を出品。
高野山からも関係者が多数見学に行ったようですが
天然にこだわって製造する事を確認したようです。

ただこの決断が仇となり、早くに冷凍庫を導入した信州地方に遅れを取り
最終的には第2次大戦の物資不足と相まって山内で製造されなくなりました。

当店も元々はお豆腐を主として明治期に創業しており、
大戦中は19年に駐屯してきた海軍航空隊の御用商人となり
何とか命脈を保つ事ができました。

色々と調べて面白いと思ったことは、「続紀伊風土記高野山之部氷豆腐」に
山上に数十軒の氷豆腐屋があり特に源兵衛豆腐が美味しく
山上は言うに及ばず麓や葛城峯の北山の偽物が、源兵衛豆腐と名乗って
都市部に輸送されていると書かれている事です。

いつの世もする事は変わらないようです。